(天声人語)安部公房と奉天の街 2024年12月17日 5時00分
- 羅夢 諸星
- 2024年12月17日
- 読了時間: 2分
瀋陽という街を、かつて日本人は奉天と呼んだ。中国の東北地方が広く満州と言われたころの話だ。東京駅に似た駅舎が造られ、日本の子どもが通う学校は、千代田小学校と名付けられた。卒業生のひとり、安部公房は書いている
瀋陽の昔の名前は?
清朝が北京に遷都するまでは国都とされ、盛京と呼ばれた。 その後は奉天とも呼ばれたが、辛亥革命(1911年)を経て瀋陽と変わった。
安部公房の出身高校はどこですか?
その年、東京と満洲の大連で始まったラジオ放送は、安部が9歳になると奉天でも聞けるようになった。 40年に単身で東京に戻り成城高等学校(現・成城学園高等学校)に入り、43年、東京帝国大学医学部に入学。48年に同大を卒業したが、医師の道を選ばずこの頃から本格的な創作活動に入った。Nov 26, 2024
▼ほこりっぽく乾いた、樹木の少ない町、流れの定まらない黄色くにごった河、象徴的にそびえている給水塔……。「私が育った奉天というところは、あの殺風景な満州の中でもとくに殺風景な町である」
▼ノーベル文学賞の有力候補とされた著名作家は、出身地を問われる度に複雑な感情を抱いていたようだ。「私たちは奉天を故郷と名乗る資格をもたない」。そんな言葉を記した小文も残る。「日本人の全体は武装した侵略移民だった」のだからと
▼『壁』『砂の女』『箱男』。いずれも不条理な世界観で、読む人の心を波だたせる名作だが、私が一番ひかれるのは『けものたちは故郷をめざす』。敗戦の後、満州から「帰国」しようとする主人公の若者はつぶやく。「日本なんて、どこにもないのかもしれないな」
▼国家とは何か。国籍とは、国境とは何なのか。日ごろは鉄板のように強固に思えても、実はあやふやなものに過ぎず、何かの拍子にスッと消えてしまう。そんな脆(もろ)い存在であることを、終戦を奉天で迎えた作家は、痛切に感じていたのだろう
▼今年は、安部公房の生誕100年である。彼が通った千代田小学校は瀋陽にもうないが、給水塔は文化財に指定され、いまも静かにそこにある。

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